
小田原のひとつ先の早川駅まで。これSUICA。海沿いの道を歩いて、海の前のアトリエハヤカワへ。

かわいい子たちも会場を走りまわっていた。yo氏も絶賛のミポアンと覆面ちゃん

お弁当とおやつ付。おいしそうなベーグル。ほんとおいしかった。

アーティストの仕事のひとつ。微発砲のおいしいワインサッポロイエローテイルモスカートについてくるおねえさん。タレントさんのご用命はこちらへどうぞ。

もう一人のアーティスト。今日の選曲もすばらしい!ORIENTAL APARTMENT 東★洋一。(にして茅ヶ崎の名店「空海」のシェフ)



抽選が当たってアーティストに似顔絵を描いてもらうyo氏。なんてラッキーな!
おいしいものと音楽と。アーティストのためにこんな遠くまでやって来る若い人たち、イベントを企画し実行してくれる仲間。アーティストはファンや家族や友人に愛されている人。アトリエは幸せな空気につつまれていた。
F_A_C_E_F_U_L TAKAHIRO KIMURA WEB SITE
木村タカヒロ作品集 e-motion DVD付発売中。
木村さんの父上はタイガーマスクなどのアニメーター木村圭市郎氏
妹君は湘南のカリスマ雑貨店truckmarketのキムラミユキさん。
チャリで鎌倉往復。古都のショーウインドウにはもうお雛さまが。

神奈川県立近代美術館の内藤礼展。人によっては作品を見て「え。これだけ?」と腰くだけになるかも。でもそういうのを深く愛する人たちがいるのですね(わたしとか)。

内藤 礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している:神奈川県立近代美術館<鎌倉館>
↑このようにですね、展示スペースの中に入れるのですよ。監視のお姉さんに「おねがいします」と声をかけて、脇の小さな入り口から、靴を脱いであがります。足元の作品の電球にはそれぞれ小さなビンに入ったお水と、小さな布が畳んで置いてあって、なんとなくお茶会みたいなんです。この狭く細長いほとんど真っ暗な空間をすり足で歩いてみると、バランスを取りにくい。平衡感覚がなくなる感じ。よく見ると美術館の展示用のガラスって下向きに傾いているのですね。上からの照明を反射しないようにでしょうか。
部屋の4面にある電球のほのかな明かりはそれぞれのガラスに映って、暗いお堂のなかに灯明がたくさんあるみたい。ガラスの中に入ってみると、目線の高さには下からの明かりで浮かび上がる壁の凹凸が。ここで展示されるいろいろな絵のウラには、いつもあの凹凸がある。今度違う展覧会で来たとき、「元気?」と凹凸に声をかけるかも。
中庭には、白いヒモが風で舞い上がっていた。三渓園で見た、電熱器とヒモの組み合わせを大きくした感じ。吹き抜けから見える四角い空。雲やトンビが横切る。絶妙な風の量だった。雨の日は淋しいかも。雨の日は。。。池に面したビーズとビンの水に水滴が落ちてそれはそれできれいだろうな。


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帰りは丸七商店街をチェックして、市場で夕飯の買物。

強い西風で日が暮れそうだし、泣きそうになりながら必死にペダルを。鵠沼あたりで太陽が伊豆半島に沈んだ。その瞬間、134号線より内陸側は風がやんでゆるい追い風に変わった。ずっと赤い水平線を見ながら走って帰宅。

海を見に行く3人(鵠沼)。
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そうそう、行きに、鵠沼の元町ユニオンの中のパン屋さん、カラヘオでルビー・グレープフルーツとクリームチーズのペストリーを買って、江ノ島水族館脇の空き地で食べた。おいしかった!壁の向こうはイルカのプール。がんばってショーをやっている声がしていた。
新江ノ島水族館(えのすい)のtwitterアカウント:http://twitter.com/enosui_com
谷中は猫の町。それは朝倉彫塑館(平成25年まで閉館中)があるからか?とにかく猫グッズのお店が多い。
路地を歩いていてふと目に付いた「ギャラリー猫町」という看板。吸い寄せられるように入って行く。なんとなく作品を見ていると、???これはみたことある、と思い出した。むかーし、銀座の松屋デパートで見た刺繍の作品。パワフルで自由で、こんなの見たことない!と印象に残ったのだった。作家の人と話してみると、まさにその人だった。松屋の展示はその作家、稲田敦さんにとって初めての個展で、10年前だったそう。作品は相変わらずパワフルだった。この出会いはお互いにうれしくて、私は見るだけのつもりだったけど、ついついマグネットを買ってしまい、稲田さんはおまけにポストカードを2枚もつけてくれた。貧乏なお客で申し訳ない。。。この記事を見たお金持ちの人は見に行って作品を買ってください。
ギャラリー猫町
●2009年9月3日(木)~20日(日) *9/7~9,14~16休廊
ATSUSHI INADA「アールニャーボー展」
鎌倉まで自転車で。父の仕事のお客さん、大分在住の写真家SHUさんの写真展を見に。湘南とも縁のある方のようです。
cafe vivement dimanche : La Havana 写真展
有名なカフェだけどいつも人がいっぱいで中に入ったことなかった。この日もああ、満席か。。。と思ったけど1テーブルだけ空いていて、超ラッキー。ブラジルのコーヒーと音楽。置いてある雑誌はレコードコレクター。隣のテーブルの人たちは世界中を放浪した話。
SHUさんのハバナの写真は、初めて見る異国なのに、どこか懐かしい感じで、ああ、ここ行ってみたい、とせつなくなる影を落としていて、写真と店の雰囲気がピッタリでした。


若いひとたちだけでなく、一人で来ているおばあさんや、小さい子供連れの一家も食事をしていて、それがいい感じだった。うちも部屋のインテリア変えようかなと思ったのは十数年ぶり。
ちなみに父の仕事とは保険業で、治安の悪い場所にでかけるアーティストのみなさんのお手伝いもしています。
上野の森美術館で藤田嗣治展を見た後、国立西洋美術館へ。上野駅公園口から上野公園の奥の方へ、ザッザッと枯れ葉を踏む急ぎ足の人の流れと交差する。その突き当たりは上野動物園。パンダ亡き後、空いた部屋を、今はレッサーパンダが使っているらしい。いいなあ、それちょっと見たいと思う。人の流れは動物園の前で曲がって、東京都美術館へ。みな取り憑かれたようにフェルメール展へ吸い込まれて行く。
東京都美術館の横では、ホームレスのおじさんたちが座って、「地の涯宣教教会(と車にペイントされていた)」のお説教を聞かされている。説教抜きでサッサと食事だけ配ればいいのにと思う。
国立西洋美術館のハンマースホイ展(すでに終了)。フジタでお腹いっぱいで、何を食べても味がしない状態。一番よかったのは、室内の間取りを3Dで再現したムービーかな。webでも見れる。
それを見ていると、罠にかかった虫になった気がしてくる。紙を折り畳んで作られた部屋があり、その奥に絵がかけてある。次々に絵を見て行くうちに、足下の接着剤で動けなくなる。。。
レオナール・フジタ展
修復が終わった幻の大作と、晩年に焦点を当てた展覧会。今回のドヒャー!は、宗教画としての地獄絵。「ヨハネ黙示録」。それを見たとき、前に見た地獄絵を思い出した。
いつだったか、国立近代美術館で日本の近代絵画の大回顧展があって、日本の至宝の絵画が一斉に陳列された。その際、美術界でタブーとなっていた「戦争画」というジャンルが初めて公開されたのです。有名な画家が当時の政府に協力して描いた戦場の絵。
「近代日本美術の名作−100年の軌跡」所蔵作品による全館陳列
この構成中、戦前と戦後に挟まれている「�社会の中の芸術家」というのがそれだったんじゃないかな。小磯良平などはどんなテーマでも小磯良平だったが、藤田嗣治のは見た事がない画風で驚いて記憶に残った。これが本当に藤田嗣治?
南の島で一般人、女性や子どもたちが集団自決している「サイパン島同胞臣節を全うす」。181*362という大画面の前に立つと、自分がその絵に吸い込まれるというか、その場に居るような錯覚に陥る。火薬の匂いで鼻の奥がつんとなる感じ。運命に翻弄される人々の断末魔の叫びが聞こえてくるようだった。
同時期の作品「アッツ島玉砕」↓
第7回「戦前」と「戦後」は断絶しているのだろうか?:社会メディア論 II
「藤田嗣治「異邦人」の生涯」によると、藤田はその題材を、芸術として描く事に熱中した。巡回展示された地方で、絵に手を合わせて拝んでいる人たちを見て、ふだん芸術に縁のない人の心をそれほどに動かした事に、自分でも驚いたという。
フジタは若いころ、西洋美術の真髄を理解すべく、毎日ルーブルに通って、古代〜中世〜ルネサンス〜とあらゆる絵画を研究したらしい。
フジタの目には、西洋絵画にいやというほど出てくるテーマ「キリストの殉教」「最後の審判」の図が焼き付いていたのでは。そして自分も過去の大作家と同じように、画家としての究極の仕事「最後の審判」の場面を描かなければならないと思っていたんじゃないかな。キリスト教徒でない日本人の自分は戦争画によって。。。
きっと戦利品の美術館であるルーブルの呪いにかかってたんだと思うな。
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フジタは、非常に勤勉で、酒も飲まず賭事もせず、ただただ絵を描いていたらしい。制作の時間を確保するのを怠ることを戒めるため、手首に腕時計の入墨を入れていたそうだ。アトリエでの写真を見ると、そんなフジタを休ませようと「生産効率低下委員会」が盛んに活動しているのがわかる。膝に乗ったり、スケッチブックの上に寝そべったり。しかし彼らの活動も、フジタのいっそうの制作意欲をかきたて、裏目にでてしまったようだ。

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フジタが晩年を過ごしたパリ郊外の家は、インテリア雑誌に載っていそうなカントリースタイル。そのオシャレなキッチンの隅に、なにやら見慣れた白いモノが。。。電器炊飯器でした。:)
内藤礼さんの作品を見に、横浜トリエンナーレの会場のひとつ、三渓園へ。
三渓園に行くのは難しい。電車、バス、徒歩。やっと門に着いたと思ったら、広い園内を「トリエンナーレはどこお?」とえんえん歩く。そしてたどりついた、あばらやのような小屋のような、小さな茶室をのぞくと。。。ふにょにょにょ〜〜。腰くだけるよ。たはは、内藤礼、最高!!
追記:ビデオがありました↓
ヨコハマアートチャンネル アートログ 横浜トリエンナーレ2008 三渓園
近所の古書店で手に入れた「現代思想 臨時増刊 1980.7 総特集=地中海」に若桑みどり氏が書いている「人体表現における南と北」という文章を読んで、どうしてもティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」を見たくなった。
これには元絵があって、ジオルジオーネの「眠れるヴィーナス」だというのは有名だけど、今回の展示を見てそれにさらに元絵があったことを知った。それは本の挿し絵として描かれた小さな線画で、「こんなマンガみたいなのが元ネタなのか!」とyo氏は驚いていた。
ウルビーノでこの絵を見たっけ?所蔵はウフィツィになっていた。なぜウフィツィにあるんだろう?
このようなヴィーナスの絵は、当時、婚礼家具の長持ち(カッソーネ)のフタの裏によく描かれたものだったらしい。こんな感じで。
![]()
すると、このウルビーノのヴィーナスが横たわっている理由や、背景の説明がなんとなく浮かんでくる。
若桑氏によると、イタリアルネサンス期の人体表現法はゲルマンにも影響を与えたが、その北方の一派クラナッハなどと、南方のティツィアーノらの、ヴィーナス像の表現を見比べると決定的な違いがある。それはシンメトリーの徹底具合で
シンメトリーとは、ラテン人にとっては、個と個、個と全体、空間内における人体のシンメトリーであった。それゆえ風景なしに人体はありえない。クラナッハやグリーンのように(デューラーすらも)背景を黒でうめるという事は、イタリアには決してないのです。
若桑氏は続けて、ゴシック的、またはラテン的な人体表現は、それぞれの「民族性」によるものではなくて
それは人間と世界の関係についての、その文明の根源的な視点から生れたものであります。即ち、世界を有限な、閉ざされた、人間の尺度によって計測しうるものと感ずるか、あるいはまた、これを無限で捕らえがたく、超人的尺度において見るかということであって
まさに、その故にこそ、十六世紀イタリア、曾て黄金の人体比例を完成させたその本拠が、ルター側にもましていっそう狂信的な宗教改革をこうむり、自治都市の崩壊と"新封建化"と呼ばれる初期絶対王制への転回を行ったこと、そこには十五世紀ゲルマンと酷似したマニエリスムの「蛇状体形」(ディスプロポーションと波状形姿とドラブリを特徴とする)が生まれ出たのも、不思議ではありません。
「ヴィーナス誕生」や「春」を描いたボッティチェリが、晩年はサヴォナローラの影響で別人のような作風になってしまったことや、(あのサンマルコ修道院のサヴォナローラの部屋。。。そこだけは公開されていなくてそれがまた恐ろしかった)、ウルビーノがこの「ウルビーノのヴィーナス」が納品されてからしばらくすると自治を失って教皇領になってしまったことなどを思い出す。
そして氏の研究はマニエリスムへと。。。ドラブリって何だ?次に読むのはこれだろうな、古書店の奥の方にあったなあと思いつつ。まだ「クアトロ・ラガッツィ」も読み終わってないんだけど。
人が手を伸ばせば届く距離で完結する世界、いつも全体を見渡せる位置か。盆栽や茶室や日本庭園はそれを実現してないかな。その後に行った国立博物館の庭園で感じたのでした。
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ドールハウスとか鉄道模型とか、人が世界を理解できる大きさに定義し直したものを好むのはそういうこと?ルネサンスの絵画がわれわれにあたえてくれる幸福感とは、LEGO的なものなのか?いやいや、ああいう判で押したような、無限に増殖するようなパターンによる表現、エジプト美術ぽいものは、ルネサンス的なものと対極にあるって言ってたよな。。。ああわかんなくなってきました。
1章と2章は「現代思想」1987~1990に「日常の図像学」というタイトルで連載されたもの。懐かしいトピックも。これを見てもういいや。。。と思うかもしれない。
そう思いつつ、3章に進み、ちょっと眠くなりそうになるのを、お茶を飲んだり声に出したりしながら最後まで読むと、えもいわれぬ幸福感に包まれます。この本は絶版ですが、3章はCiNii - 東京芸術大学音楽学部年誌 5 に「人間的空間の系譜 : 人文主義的文化における建築と都市の理論」というタイトルで収録されていて、幸いな事に、インターネット上で読む事が出来ます。
昨日今日と夕陽がきれいですね。日が暮れてからも星や海の向こうの明かりが手でつかめそうなくらいに近くに見えました。今朝6時頃ふと目が覚めて明け方の空はどうなってるんだろうと玄関ドアを開けると、ドアの上にいた鳥がバサバサっと飛んで行きました。あ、ごめん。。。その後ろ姿はイソヒヨドリだったような。イソヒヨドリと同じ屋根の下で夜露をしのいでいたとは。
日暮里の富士見坂は昨日と今日がダイヤモンド富士の日(山頂に日が沈む)だったそうですね。
六時間後に - 谷根千ウロウロ
夕陽もきれいだけど、それを見ている人の顔もきれいです。湘南は東京より南なのですでにその日は過ぎました。いつだったんだろう。この季節、夕方になると134号線にかかる歩道橋の上は、散歩がてら夕陽を見に来る人が多いです。
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この写真は解体中の公団。あの白く光る箱は何だろうと思って撮って後でわかったのでした。
放送大学をビデオに撮りためたものを一気に見ました。青山先生の「芸術の理論と歴史'06」。理論はともかく、海外ロケを多用し有名な建築や絵画の本物の前で説明してくれるってのは放送大学ならではだなあと思います。大声でまくしたてる先生の横をけげんな顔で通り過ぎる観光客も面白いし。
全15回中、第2回の高橋睦郎との話が記憶に残りました。「個人個人の内面にある地獄を開いて見せたってそんなものは芸術じゃない」「詩は内から出てくるものではなくて、向こうからやって来るもの」など。青山先生に促されて次第にガードを解いて本音を語り出す詩人。それは詩人の自宅で、明るい部屋の窓越しに緑あふれる庭が見え、背後の鳥カゴでは2羽の小鳥が鳴きながらイチャイチャしていて、スタッフはちゃんとその鳥カゴまでをフレームに入れています。
あと最終回ではクリストについてかなり力が入っていて、白い布で覆われた「梱包されたライヒスターク」の映像が印象的でした。あれ?今日こんなの見たな。。。偶然っておもしろいです。
「墓の彫刻―死にたち向かった精神の様態」というタイトル。著者はE・パノフスキー。ということは「あれ」が見れるのではないか!と期待して手に取った本。
人は何を価値あるものと感じるのか?パノフスキーの「イデア」と澤柳大五郎の「ギリシアの美術」は、そういうことを考えるということはどういうことか、という実例を教えてくれた。特に「ギリシアの美術」のアッティカの墓碑の章は、それを読み終わった後、感動で長く長くため息が出た。
前5世紀半ばから4世紀末までに、アッティカ地方で作られた墓碑。それは石の板に彫られた浮き彫りなのだが、そこに掘られているのは、死者の生前の姿。故人の業績を記念する姿でもなく、死後の楽園に暮らす姿でもなく、日常の生活の一場面。
その場面には、まだ生きている家族や従者も一緒に登場することもある。しかし、その人物たちのうち誰が死者なのかは、表情を見るだけですぐわかる。死者は周りの誰の声も聞こえず、誰の顔も見えず、視線を遠くに投げ、静かに死を受け入れている。生者の人物たちはそんな死者を見つめたり手を握ったりして愛情を示している。
エジプト人のように死後に旅に出るでもなく、キリスト教徒のように天国(または地獄)に暮らすでもなく、日常の中に永遠が、死と生が同時に存在するというギリシア人の死生観。それは故人の本質とは何だったかを記録し永遠に残そうとした、墓碑の彫刻を見ることによって、私の心に刻まれた。岩波新書の数ページに小さくモノクロで印刷された写真ではあったが。
「美とはどういうことだろうか?」「それは、ある人にとっては美だが、ある人にとっては美ではない、というものであってはならず」「ある時は美しいが、またある時はそうでない、というものではあってはならない」。。。という会話によって定義されていく、プラトンのイデア論を読むよりも。
この「ギリシアの美術」を25年ぶりぐらいに読み返してみて、墓碑の章の次章に鉛筆で傍線が引かれているのを発見した。自分で引いた以外に考えられないのだが。
しかし全期を通じてギリシア人にとってはこころと身体とは一つであった。こころは眼に見えるものであった。また顔と身体は一つであった。
ギリシア人にとっては眼のみならず、全身がこころの窓なのである。
「全身がこころの窓」という言葉にあっと思った。今、同時に読んでいた別の本とつながったからだった。それは「岩波科学ライブラリー 皮膚は考える」にて。。。
パノフスキーの「イデア」は新訳が出たんですね。少しは読みやすくなったのかな。
相模湾の生物 きのう・きょう・あすを見に国立科学博物館へ。リニューアルオープンした本館の内装はかっこよかった。忠犬ハチ公(本人)、南極観測犬ジロ(本人)の剥製が居てびっくりした。忠犬ハチ公は秋田犬だったのね。印象は「デカイ」の一言です。あんな大きな犬が自由に渋谷の町を歩き回っていた時代があったとは。
世界を象徴的に消化=同化する自らに固有のプロセスに他者を巻き込みたいという欲望は普遍的なものである。
不条理が渦巻くこの世の出来事を自分に理解できる大きさと形にして引き出しにしまいたい、そして安心したい。できればすべてを言葉に置き換えてすっきりさせたい。なぜ生きるのか?なぜ死ぬのか?なぜ異性にもてないか?納得いく説明がほしい。その適用範囲の広さにより、宇宙全体をカバーするなら科学、文明共通なら哲学、気候風土内なら宗教や占いといろいろあるものの、人間は常にそういう活動をしないと不安で生きていけないものらしい。
著者は、その過程も言語によるもの(哲学)映像によるもの(美術)身体によるもの(カメラを構えてシャッターを押す動作とか?)様々あり、かつてはすべての過程は最終的に言語に集約されると思われていたが、映像には映像の、身体には身体の象徴化プロセスがある。。。。。って普通そうでは??
それに映像には、自分の脳内にある過去のトラウマや家族の秘密を解放すべく、つまり象徴化しようとする試みの痕跡が残るって、私が大嫌いな近代美術の研究方法、作家の年譜を調べて個人的な出来事が絵画におよぼす影響を調べるという探偵ごっこを思い出してちょっとムカっとした。まったく心理学者や占い師は油断ならない。
著者の他の本、タンタンの冒険旅行シリーズを精神分析したという「精神分析家を訪れるタンタン」には、私自身がタンタンが好きなのでちょっと興味あるけど。ああ、もうやられてる!
ロラン・バルトの「明るい部屋」やソンタグの「写真論」は、写真という映像を見る事についての本だったが、この「明るい部屋の謎」は写真を撮るという行為についての考察を述べた本。序章の6ページだけで考える事が多くて、なかなか先に進まない。
何故人は写真を撮ることに熱中するのか?対象をカタログ化して所有したい、映像の制作者側に回りたい、被写体との力関係で上位に立ちたい、いろいろあるが、著者は「様々な欲望の背後に映像による世界の明瞭化という欲望が浮かび上がってくる」と述べています。
私が何かにカメラを向ける時、それは相手が私を呼び止めるから。薄暮の中に浮かび上がる光と影の言葉を聞き取ろうとするからなのですが、それはやはり世界を明瞭化したいという欲望なんでしょうか?
(いつになるかわからないけどつづく)
やっとでき上がった大重シリーズアイコンを持って、夕方yo氏は東京へ。私は車で馬入橋を渡り平塚へ。10月1日までの絵本原画展を見に。平塚市美術館はなんとこの会期中連日7時まで開いています。すばらしい。
平塚市美術館/企画展示
世界の絵本がやってきた
ブラティスラヴァ世界絵本原画展
特別展示 チャペック兄弟、ラダ、トゥルンカ チェコ絵本の黄金時代
静かな夜の美術館。絵を勉強している風の若い人がチラホラいるだけ。たぶん昼間はお子さん連れでにぎやかなんだろうな。絵だけでなくておもちゃの展示もあって楽しい雰囲気です。
グランプリ受賞のイランの作家の絵はマチエールも陰影も深くあたたかくて素晴らしい作品でした。絵本の原画を見て毎回おもうこと、それは「小さい」。絵本の原寸なんです。そこにあんな細かく小さく何重にも技術を重ねて描けるとは。若いうちでないとできませんね。
世界の作家の原画は、作家自身のイメージでビッシリ固められています。対して日本の作家は絵の具が乗っていない余白がきいています。海外の作家の濃い味を見たあとでは、ちょっと物足りないかも?と思うのですが、印刷されて絵本になったものを見ると、それがいーい感じなのです。会場ではソファの上に原画の絵本も用意されていて自由に見る事ができます。
瀬川康男の「ひな」はコラージュのように見える繊細な表現。この方は名作「いないいないばあ」の方なんですね。
宇野亜喜良の「りゅうのおくりもの」は大迫力の飛び出す絵本。ちょっと怖いのがいいですねえ。舞台は江ノ島なんですけど、お土産屋さんなんかにも置いてあるのかなあ。宇野亜喜良の絵本ですよ。なんちゅうオシャレなお土産になることか。これは「とびだす!妖怪のえほん」シリーズだそうです。
◇仕掛け絵本プロジェクト2004 ■第1回
日本絵本賞受賞絵本原画展
「どい かや」さんの「チリとチリリ」は色鉛筆でとってもきれいでかわいい。小さな二人の女の子が自転車に乗ってあちこち行くのがいいわあ。「チリとチリリうみのおはなし」も見たい。
そして今回わたしてきグランプリはこれ長谷川 義史さんです。
この絵の前で、ブホッと声が出て、バッグからメガネを取り出しました。ああ、これは誰かと一緒に見たい。製本された絵本も手に取りまして、じっくり見ました。これおもしろいよねえ。あたりを見回すのですが、若い人たちはあまり興味がなさそうです。オバサンさみしい。
そして第2部はチェコの代表的絵本作家のコーナー。「ダーシェンカ 子犬の生活」のカレル・チャペック、トゥルンカ、ラダなどの有名な絵。おっと思ったのは、セコラのアリさんシリーズが出ていた事。ずっと前、ユトレヒトで面白い絵本を見た。主人公がぎっくり腰のアリで、なんとジャージ着てるんですよ。その名も「アリさんあいたたた」。ずっと気になってたんです。
【polamal se mravenecek】
Josef Kozisek/著 Nakreslil Ondrej Sekora/絵
他にもブタさんの絵のお肉屋さんのポスターや、黒ビールの宣伝用のイラストなどもかわいかったです。
この企画展はこの後地方を巡回するそうです。平塚での図版は売り切れで、どうしてもほしければ出版元に現金書留で申し込むようにということでした。首都圏ですと2007年1月20日〜3月11日、三鷹市民ギャラリーでもあります。
アマゾンから来た「あなたはこういうのが好きですね?」メールで知った骰子の7の目シリーズの復刻。これは河出書房からの増補新版版。70年代、シュルレアリスム、高校の美術室、木炭、イーゼル、油絵の具の匂い、激論を交わした男の子。あーもうやんなっちゃう。なつかしいような、思い出したくないような。
を見に上野の国立博物館に行きました。鳥獣花木図屏風のデジタル風な表現をTVで見て、非常に気に入ったというyo氏と一緒に。混んでた。お土産コーナーで発見、鳥獣花木図屏風のアロハシャツ。正絹2万円なり。誰が買うんじゃ?と思っていたら目の前でお金持ちのオバサマが試着してお買い上げ。
久しぶりに肉筆の日本画を間近で見た。墨と筆で描かれた線を見ると、作者の腕の長さ、線を引く時の息を止める長さ、何度も何度も同じ線を引いたであろうその動き、それに使う筋肉、いろいろなことが観ているこちらの体に伝わってくる。所蔵者のプライス氏のblogによると、若冲の絵には包み込むラインが繰り返し出てくるそう。包み込むラインとは中から押し出す力とそれを抑える力のギリギリの界面。バランスの緊張感。ラインがすべて。それはバレエと同じなのです。
今回の展示で感銘を受けたのは、所蔵者の希望で作られた屏風のコーナー。ガラスケースなしで、朝〜昼〜夕方と変化する光が再現されている。美術館の冷たい照明の下ではなく、日本家屋の陰影の中に屏風が置かれていたら、このように時の移ろいとともに表情が変わるのだろうなあ。という、屏風絵の本来の美しさ、観賞の仕方を見せてくれています。描かれた場面が立体的に見えたり、背景の金箔が浮かび上がり絵がシルエットとなったり、屏風がこのようなものだと初めて知りました。ありがとう、プライスさん。
本館では若冲と同時代の酒井抱一の「夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)」が展示されていました。これも本当にすばらしい絵。その向いの「納涼図屏風(のうりょうずびょうぶ)」もいい味です。納涼って英語でcooling offになってました。
打ち合わせに向かうyo氏と別れて私はアメヨコの大津屋でライムのピクルスを買って帰りました。家に帰って、瓶詰めを開けてちょっと食べてみましたが。。。うえってかんじ。飲み込んだ後、口に残るかすかな感じはおいしいんだけど。ここ2,3日ノドが痛かったせいかもしれない。今度何かかくし味に使ってみよう。
二十歳の頃、ある人と話していて、「私は科学しか信じない」というと「しかしその科学も人間の頭の中で作られた言葉によって成り立っている」と言われて、うーんと思ったことなどを思い出した。自分を取り巻くこの世の中の現象を言葉によって単純なものに言い直したいという欲求。それは科学とか宗教とか哲学とか美術評論とか様々な形を持つが本質は共通している。
急速な経済のグローバル化を不安に思う気持ちが、今の世の中にあると思う。企業の買収や証券取引の活況に対して、スローライフとかロハスとかこれも実態のないものが印刷物や音声の商品になって流通している。イタリア発祥のスローフード運動は島村菜津さんの本で有名になった。彼女はイタリアで「エクソシストとの対話」という本も書いていて、その中に忘れられない一文がある。取材した教会関係の女性の言葉「このごろの人はみんなすぐに答えをほしがる。人には理解できないものもあるということを忘れているわ」(だったかな?)私はこの言葉がグローバル化への反発であるスローフード運動の鍵だと思った。貨幣のように数えることが出来ず、言葉のように表わすことが出来ないものの価値を見直そうという。
混沌とした現象を受け入れて暮らすのはとても不安でできれば避けたい。隅々まで明るく照された夜道を歩きたい。人がそう思うのは当然だ。そして極端に脳化された社会システムの中で生きていると、すべて自分の意志でコントロールできると思ってしまう。けれどかつて大文明が栄えた場所が森林資源を使い果たして荒野になり巨大遺跡だけが残っているのを見ると、この脳化社会の行く末はどうなるのかと不安になる。脳のしくみを知ることで脳の限界を知る。という学問に人気が集まるのもわかるな。
芸術と言説について
踊る人を見て、その感動を思い出す。劇場の出口で、道を歩きながら、電車の中で、家に帰ってベッドに入って目を閉じてから。思い出すたび感動の輝きは少しずつ部品が落ちていくように周りから欠けていく。なんとかつなぎとめようと言葉に記録する。しばらくたって、書かれた言葉を読むとその日の感動を思い出す。でもそれはかすかに記憶に残る元の感動とすでに少し違っている。このとき自分はこう感じたのか。。。と思う。またしばらくして読む。もう元の感動はどこかに消えている。残された言葉が代わりになる。そして時間が経つほど確実に元の感動と言葉がすりかわる。
お正月にテレビで白洲正子の世界みたいな番組をやっていて「花の美しさはない、けど美しい花はある」という言葉が紹介されていた。白洲正子は能の人。そして脳の人、茂木健一郎も同じことを言っていた。ノウ同志。
著者について
本の最後に著者から読者に贈られる言葉がある。こうやってお土産まで用意してくれるなんて、なんていい人だろう。この人はいろんな人と対談をやっていて、mp3で聞くことが出来る。これがけっこうおもしろい。
茂木健一郎 クオリア日記: (本日)いとうせいこう × 茂木健一郎
学生時代に劇場のシリーズを見てノックアウトされて、私にとって特別な作家なんですが、なぜか国内ではなかなか作品を見れないのです。それがなんとこのたび回顧展があるんですわ。こんなことはもう2度とないかもしれない。。。考えるだけで鼻血が出そうです。
BRUTUSでも特集号が!保存用にもう1冊買っとこうかな
同時期にレスター手稿の公開もあり
CGで復元された晩餐図をニューヨークの街頭に持ち出して、何の予備知識も持っていない普通の人に見てもらった感想がおもしろい。イラクから政治亡命したタクシー運転手は「故郷での人権について話しあう集会を思い出す。議論が白熱するが何一つ決まったためしが無い」といい、バーテンダーは「バーのカウンターを内側から見た風景だ」という。たしかに!テーブルの片側にだけ人がいるなんて変。TVのホームドラマの手法の起源はこれだったか。またあるイタリア人はマフィアの会合だという。「この中に裏切り者がいると親分に告げられてみんなびびってるところ。情婦をのぞいて」その情婦とはヨハネのことらしい。それはこの女だと指さしたそうだ。ダ・ヴィンチは市井の人びとをデッサンしてモデルにしたそうなので、12使徒はイタリア人のサンプルでもあるか。
ところで、わたしはミラノでこの実物を見た事がある。向いの壁にその時代の別人の作品が描かれており、その絵もすばらしい絵なのだが「何もかもが画期的だったダ・ヴィンチの絵と比べられて500年間ボロクソ言われ続けている不運な絵なのでございます」とガイドさんに言われていた。
現代美術家の荒川修作氏が自ら発注者となって建設を進めている集合住宅「三鷹天命反転住宅」の建築確認が7月12日、建設地の三鷹市から下りた。
天命反転シリーズ、今度はマンション。だいじょぶかなあ。ところで「円筒形の家に住んでみたい」と思った事ありますか?ムーミンの家とか、アフリカの泥壁の家とか、パオとか。子どもの頃、近所にあった円筒形のコンクリート製の給水塔がかっこいいなあ、あそこに住めないかなあなんて思ってました。
ジオデシックドーム[正三角形を多数組み合わせたドーム:写真]の特許はちょうどこの日に50周年を迎える。
と言う事は、特許が切れるということですか?あちこちにジオデシックドームが建つようになるのでしょうか。数年前、鎌倉の近代美術館にフラーの展覧会を見に行き、その数日後、解体中の海の家の写真を撮りました。

フラー展にて2001.08.21
とうとう行った。真鶴に、個人ですごいコレクションを持ってる人がいる、自宅を博物館にしてると聞いていた。そのコレクションを見れば、同定できない貝の名前がわかるかもと思ったのだ。んで、一番の収穫は。。。館長のおじいちゃん(^^)。もー、しゃべるしゃべる。オキナエビスガイを買い付けるために先祖伝来の山と土地を売り払い、若い頃は貝の収集のためにセブ島で現地民と3年間暮らしたそう。伝説の人。貝にやられちゃった人生。あ、貝の方がおじいちゃんにやられたのか。おもしろいお話がいっぱい聞けます。てゆうか強制的に聞かされます。また行こうっと。車を運転して一緒に行ってくれたYさんは「また行けば」って言ってました(^^;)。
遠藤貝類博物館
岩海水浴場を目前に眺める世界のめずらしい貝を集めたミュージアムです。
そのおじいちゃんが去年、米寿のお祝いに本を出版した。今は亡き細谷角次郎という有名なコレクターが自らのコレクションを写生したものを、遺族の方から譲り受けたので「貝類図絵」として1千万かけて自費出版したそう。とっても高かったんだけど、買ってしまいました。写生はまあ、素人なんだけど、とっても正確。ここは押さえないとというところをきっちり描いてある。
描く対象をよく知っているかどうかてのは大変大事で、写真を見てその通りに描くのと、手に取ってこねまわしてできれば外側をむいて中身を見て構造を知ってから描くのでは大違い。たとえばリンゴを描くにしても、自分でリンゴの皮をむいてみたり真横に輪切りにしてみて、リンゴが実は球体じゃなくて、五角柱からできていることに気がついたら。みかんだって、皮の内側に房のひとつひとつがひしめき合い、皮を内側から押し上げてるんだと知っていたら、もうぜんぜん絵は変わってくるでしょう。