Director 7の世代
春はもうすぐそこというのに、冷たい雨が霧のように降っている。春の出番のぎりぎりにわざとそういう演出をもってきたのではないとしたら、春がパンツを穿き忘れたかなんかで遅刻して、帰りかけた冬が幕つなぎをしているに違いない。
寒さで閉じこもったぼくは、D*NOTEのCDを聴きながらここ数日ずっと1つのことを考えている。それは、ここに何を書けばもっともふさわしいかということだ。きっと、「Director
7の新機能について」が書くべきことだろう。でもそれを考えていると、ぼくの頭の中にはいつの間にか20世紀の総括やインターネットの次の姿へと思いが拡散してしまって、少しも収束しようとしない。
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20世紀に生み出された物はたくさんあるが、今世紀を生きた人間が未来に誇れる1番の発明はコンピュータをおいてほかにない。
最初の頃のコンピュータは人の記憶力や計算力を拡大させる怪物のような存在だった。この怪物のキーワードは「合理化」。効率こそがもっとも重要なファクターだったのだ。しかし、この怪物は実際にはさほど賢くなく柔軟性にも欠けていた。振り向いただけでビルを壊してしまう貪臭さも同居していた。
そしてしばらくするうちに、怪物は身軽さと引き換えに大きな体を失い、ユーザーフレンドリーとかいう中途半端な処世術を身に付けた。しかしまあ、そのヘンな腰の低さと小さな体が幸いして、コンピュータは檻に囲われた生活を抜け出し家庭の温もりを知るようになる。
このころからコンピュータは文書を書く、絵を描く、作曲するというような、人の表現の代弁者のような役割を少しずつ担い始めた。そしてバブル経済も追い風となって「マルチメディア」へとキーワードは開花していったのである。その時、お立ち台の上で扇子を振っていた者の中にDirectorの若い姿もあった。そう言えば起動画面のMr.Ottoはフィーバーの決めポーズだったなあ。
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そして現在。言うまでもなくキーワードは「インターネット」である。子供から年寄りまで、男性も女性も、その興味はインターネットに向いているようだ。
ここでのコンピュータの役割はなんだろう。ホームページを見る、ホームページを作る、メールを交換する、データを受け渡す。それは何を意味しているのだろう。
インターネットが登場する前。それまでぼくたちは、送り手も受け手も作品と向き合っていたように思う。送り手はコンピュータで作品を作る。受け手は作品をCD-ROMや印刷物で見る。コンピュータの中の作品はインタラクティブだったりもしたが、それはマスターベーションのような快楽だった。つまらない作品は投げ出したらそこで終わりだった。
でもインターネットではその作品を通して作者のことを考えるようになった。たとえホームページに掲載された作品が稚拙であっても、それだけで作った人を投げ出そうとは思わない。苦笑して、逆にその人が好きになることもある。コンピュータの役割は人と人をつなぐこと。インターネットは情報ではなく、人と人を結んでいる。今や大きな怪物は小さな天使になり、愛のメッセージをセッセと運んでいるというわけだ。
(以下、途中のままボツ)
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